00.

最初に男のことを天才と呼んだのは、誰だったろう。
神のようだと言われるほどの素晴らしい力を持ち、まるで人のような美しい形を作り。
その中に命を吹き込むことで皆が崇めた、漆黒の人形師――。

最初に彼を天才だと祀ったのは、誰だっただろう。
栗色の髪を持つ、将来有望の修道女見習いの女性だった気もすれば、その弟である、何も知らなかった愚かな少年が始まりだった気もする。
否、本当は、彼らが知らないだけでもっと前から男はそうやって特別な存在だったのかもしれない。
けれど確かに、この“漆黒の男”の抑えていた力を呼び覚ましたのは、幼いが故に無知で、愛されて育ったからこそ純粋で。
そんな――今では“教会を束ねる、一人の司教”のせいだった。


辺りが薄暗くなり始めたある秋の日、ボロボロの、それでもかつては栄光を宿していたであろう大きな造りである屋敷で、男は銀色の銃を片手に奔走していた。
見つかれば、おそらく死ぬ。そして自分だけでなく、生み出した作品たちも始末される。
何も知らない人間は、「そんな物の為に命を投げ出すなど」と笑うかも知れないが、物と生きる者の命を天秤にかけての結果がそれなのだとしたら、“物に命が宿っているなら”それはどう定められるのだろう。
銃で貫けば、人間は痛いと嘆く。
そうやって同じように物を貫けば、その物も「痛い」と悲鳴を挙げるのだとしたら?
自分で呼吸をして、食べ物を口にし、泣いて怒る“物”だったら。

「はぁ…っ、はぁ」

男にとっての問題は、最早自分の命の安全ではなかった。
助けるべきは、自らが作り出した一体でも多くの作品。
未完成でも男が手を加えたその瞬間から、彼に触れられた物は意識を得る。
声こそまだ出ないもののきちんとこちらを認識し、ずっと自分に名前が与えられるその日まで待っている。
彼らを完成させられるのは、この男しかいない。
ならば男は、ここで死んではいけない。
山積みのやることを片付けるまでは、死んでやるわけにはいかなかった。

「ぁ、は…ッ」

周囲に追手がいないことを確認してから、男は肩で呼吸をしながら荒々しくドアノブを回した。
古くなって取り付けが悪くなったそれは、追手からの時間を稼ぐにはなかなかだが、こうして自身で捻るとなるととてつもなくじれったい。
どうせこの屋敷はもう使えなくなるのだ――半ば破壊する気持ちで一層力を込めてドアを引っ張ると、がちゃんと音を響かせてようやく扉が開く。
酸素吸入でも必要なのではないかと思うくらいの息が、自分でも気持ち悪いくらい耳につく。
男は銃を脚のホルダーに仕舞うと、作業机の上に散らばった部品を半ば雪崩れ落とすようにひたすら近くの大きな革の鞄に詰めていった。
兎に角、一つでもより多く。
この屋敷に展覧会の如く、作品を飾っていなかったことが唯一不幸中の幸いだ。
それでもこんな鞄に詰め込むには、等身大の人形たちは一体でも二体でも嵩になる。
男は近くにあった二体の完成品、そして他より一回り小さい造りの一体の未完成品を、部品と同じように無造作にもう一つの鞄に詰め込んだ。
多少の損傷ならば、また作業場を確保すればどうとでも出来る。
しかし、それで鞄はもう一杯だった。あとの作品は、生憎もう運べない。
けれどそれを理由に足を止めるわけにもいかなかった。
きっとここで下した決断は、彼の背負う十字架の一部になるのだろう。それでも。

「…、《ごめん》」

慌てて荷物を用意したせいで、代わりに床に散らばった本や書類、設計図を見下ろしながら男は小さく呟く。
本来ならこんな命、作品と秤に掛ければ安いもので彼にとっては自身のこれからの生は然程尊いものでもない。
元からこんな力、なくなってしまえばいいと思っていた。
調子に乗ったつもりはないが、いつからか自分を必要としてくれる存在が嬉しくて、そして今度は独りに戻ると寂しくて、造ることをやめられなくなっていた。

「《すぐ逝くから、どうか今だけは赦して欲しいんだ》」

だからこそ、男には死ぬまでに償わなければいけない罪がある。
それほど筋肉質でもない、コンクリートに当たれば簡単に割れてしまいそうな肩に、まだまだ背負わなければいけない罪がある。
自分の罪を、世界の罪を、そして“彼”がこれから背負うことになるかもしれないその罪を。
全て自分と共に、この世から持ちされる状況になるまで死んではいけないのだ。

男は再び銃を構えると、大きな、成人男性一人くらい身を縮めれば通れそうな窓へ弾を数発放って硝子を割った。
その音に、疎らだった足音が一直線にこちらへ向かってくる。

これが生きるか死ぬか、何度目かわからぬほど繰り返した――それでも決して間違ってはいけない重要な選択だ。
罪に負けてここで逃げるか、罪を重ねて先へ進むか。
割れた窓を開いて、部品の入った鞄を先に落とし、もう一つを肩に持った状態で男は縁に足を掛ける。
四階ぶん下の地面へ鞄が落ちる音を確認してから、改めて荒れ狂った室内を眺めた。
父が残してくれた本、“彼”と紡いだ思い出の日々。ここには沢山の思い出があった。
もう、きちんとこうして作業をする為に帰ることはおそらくないだろう。

追手がドアを蹴り開き、黒衣の男たちを確認したその瞬間、男は先程の鞄のように窓から落下した。

追手が窓の下を見下ろして、落ちた男を確認する。
男は細い身体でありながらも、鞄と花壇の草を下敷きになんとか身を起こしていた。
何処から滴ったのかもわからない赤い血を砂のうえに残して、鞄を引き摺るようにいつのまにか用意していた車に乗って逃げていく。
黒衣の男たちは彼の作業場に散らばった本を踏み、ドアを乱暴に開けた衝動で倒れた数体の人形たちを乱暴に手にとって確認する。
命が宿っているのならば、ここで滅さなければならない。
神に背き、勝手に魂を造る者、宿った物にはそれに相応しい罰が必要だ。

「セラフ司教」

もぬけの殻となり、男たち――神父が漁る室内に、一番最後に入室した男は、作業机の真横にあった人形を発見した部下に呼び掛けられ、すっかり荒んだ青い瞳をゆっくりとそちらに移した。
怠そうに返事をし、道を開けてくれる彼らと同じように紙類を踏んづけて机まで向かう。

「これ…は、生きているんでしょうか」

神父が困惑を浮かべて抱えていたのは、他とは雰囲気の違う等身大の人形だった。
大きさは――百四、五十だろうか。男の作品の中ではかなり大きい部類に入ると思う。
一見綺麗な顔をし、服も着せられていたが、不自然に片方だけ伸ばされた前髪をめくると、そこには磁器を覗かせるくらい深い空洞が備わっていた。
身体を掴み、軽く振ってみれば反対側の瞳は開くが、やはり右だけがない。
更に覗いた襟元に、軽く中に視線をやれば淡い二つの膨らみもそこにはなかった。
他とは違うのはこれだった。少女人形特有のなだらかな曲線が、この作品には備わっていないのだ。
生きる人間と比べれば明らかに劣るが、肩幅がそこにはある。
それ以上詮索せずとも、ここまでくれば答えは明白だった。
この作品は――“男”なのだ。即ち、少年人形。
司教は長年男を追いかけていながら、初めて見るその作品に、思わずひんやりとした頬へ指を這わす。

――忌々しい作品は、すべて破壊しなければ。

そして懐から、ゆっくりと黒い銃を取り出してその顎に突き付けた。
珍しくても美しくても、始末するのが仕事だ。司教は男の存在を、決して肯定してはならない。もう二度と。

「…?」

しかし引き金を引こうとしたその瞬間、司教は思わず目を瞠った。
話すことも、動くことも、表情を変えることも、眼球を動かすこともしない人形が。泣いていた。
片方の瞳から、透明の滴を流していた。
空洞であるその頭と顔に、涙腺なんてないはずなのに少年人形は泣いていた。
指先一つ動かさず、ただ為されるがまま、司教に銃を突き付けられ泣いていた。
その涙が意味するのは、父親を追い詰め、自身を今まさに粉砕しようとしている司教への憤りか。
それとも、如何なる理由があろうとも、自分を未完成のまま棄てた父親への憎しみか。
司教は他の神父らに覚られないよう、その雫を拭って堪らずそっと口角を釣り上げる。
嗚呼どうかこの想いが、あの男に届けばいいのに。

――斯くして運命の歯車は、廻り始める。


(それは、壊れた二人の男の物語)